昭和47年12月05日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし、天地ははやることなし、はやることなければおわりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
 
 合楽で皆さんが稽古なさっておられる信心は、稽古なさっておられるその合楽の信心の焦点とも思われる様な御理解ですね。教祖様は例えば天地日月の心になる事が肝要だと、その天地日月の心とはどういう心かと言う様に、まぁ追及してまぁ天の心とは限りなく与えて与えてやまない心、言うなら美しい心、しかも無条件である。無条件に与えて与えてやまない、そういう心が天の心である。限りなく美しゅうなりましょう、もちろん自分自身の心の中の。
 その美しゅうなりましょうやということからも、そんならどう言う様なふうに信心の焦点を置いて行ったら、美しゅうなることが出来るだろうかと言ういわば研究をするわけです。だからならこりゃぁ特に婦人の方達が皆んなあのう美しくなりたい。それですから化粧などするわけですけれども。ただそのうもう汚れた様な垢の着いたような顔に、いかに化粧してもそれではスッキリとはれない。やはり( ? )のある化粧するには、先ず地肌を作らなければならない。
 いうならば先ず垢を落とさ根ければなれない。落とさなければ地肌をしっとりと整える工夫がいる、その上に化粧である。そこにいわゆる美人だと言われる様な事になってまいりますように、信心のいわば天地日月と言う様に、その天の心というのはもう限りなくもうこれは限りない美しい心である。何故美しいか、無条件でであると言う事、もう条件なしに限りなく与えて与えてやまない心が、天の心だと言う風に合楽では説いております。だから美しゅうなりましょうやと。
 問題が起きて参りましてもありましても、これでも人間関係の場合であっても、もう限りなく美しゅうなりましょうやと言う事に、焦点が参りますともう一切が解決するんです。人間の汚い我情我欲で汚い心、又はあさましい心がいつも問題を作っておるのです、ですからもうもうこの事を通してお互いが美しゅうなりましょうやと。いう合楽での合言葉の様にです美しゅうなろうと言う事に焦点を多いたら、問題がその場で解決をする。
 とてもその美しゅうなる事のためにはどういう風にして美しゅうならせて頂くかと言う事をですまず改まり、改まる。今までついてきた言うならば自分の悪い癖とか、いうならばたまりにたまった垢なら垢を落とす事。こういう事ではこういう心掛けではおかげにならないと言った様な心を教えを頂く事によって分かって来るんです。それを最近では人を責める様な心があってはおかげにならん、それでは神の機感にかなわぬのだと言っておる事等も、こりゃ自分の心の中に人を責める責める心。人のせいにする事。
 そう言う様なその考え方、自分が今難儀をしておるのも社会せいだと、と言う様にです自分以外の所へその難儀の原因をおえておる様な考え、そういう考え方ではおかげにならんね。と言う様に言っております様に、言うならそういうその人を責める様な心。人を憎む様な心。後は私共の心の中につくっておりますところの、惜しい欲しいと言う心、これは四神様の御言葉の中に、憎い可愛いい、惜しい欲しいを取ればと仰っておられます。憎い憎む心かと言うと人情から生まれて来る可愛いいと言う心。
 そういう心はおかげの受けられない心だと、惜しい欲しいと言う様な心、だからその惜しい欲しいの様な心があっては美しくなれないです。あの人は本当に心の美しい人だと言う人は、惜しいあしげなく例えば、ものを恵むでもものを与えるでも、そういう人をあなた心の美しい人だとこう言う。だからそういう例えば限りなく改めて行かねばならないところ、又はその事によって改まれ、またその事によって磨いていくこうとする精進。そういう精進がです、天の心だとここでは言うておる。
 皆さんもそれこそ耳にタコが出来る位に、この事を聞いておられる事だと思う。だから聞いておるだけではなくて、その事に本気で焦点を置いて、最近人を責めない心と言った様な心から、皆さんが日々体験を受けておられるだけでも素晴らしい事ですね。第一不平不足を言わんで済む様になる。本気で馬鹿と阿呆となれと仰るが、責める心を自分の心から取り除く甲とするためにはどうしても、馬鹿と阿呆にならなければいけない。
 その向こうにです思いもかけない、いうなら神様の働きを受けると言う様に、天の心になる事限りなく美しゅうなることにも、こりゃ限りがない事ですから。限りなくそこに焦点を置いておかげを頂いて行かなければならない。昨日私はそのうお夢を頂いた。そのお夢と言うのが、どうも市役所かなんかから見えとられるようです。そしてここにあのう内田公子さんと言う人がおりますかちゅうけ、はぁおります。もうそして見えてからその人が怒られる事怒られる事、もう公子さんより私まで怒られる。
 なんのためにですかちゅうたら、今日は公子さんのそのう表彰状を持って来たっち。表彰状持ってきて怒らんでよかろうと、思うけれども夢の中じゃそんな、もうこの人はまぁ言うならば行き届いた人はいない。だから実は今日は表彰状を持って来たと言われる。だから表彰状持って来られるとに、なら怒りなさらんでもよかろうと、私は思わして頂いて目が覚めたんです。信心はね例えば市役所からでも表彰状をもらうごとなったら、おかげを頂かんです。
 人間的に例えば素晴らしいと言うだけでは、例えばもうその行き届いておるとか気がきいておるとか、そつがないとかと言う様な事じゃないのです。むしろ馬鹿と阿呆にならせて頂く事こそが信心なんです。皆さんもご承知の様に、公子さんなんかのあれなんかも、そりゃあもう本当にこげん気のきいとる女ごはいまいと言うぐらいに気の利いとる。だから人が気の利かんともやもやする。だから気の利いた所だけは表彰状を貰っとるんです。けれどもその次のもやもやする所で大変怒られておると言う感じです。
 せっかく私が教導させてもらようるとに、師匠が悪かけんそげなこったいと言われるとる様な感じなんです。私も一緒に怒られとる、その利口もんな馬鹿になる稽古せにゃいかん。そこから生まれて来る麗しの心になからにゃいかん。人間的に行き届いとる人間的に美しいと言うのじゃいかん。こりゃもう内田さんところの、こりゃもうあんたんげのめぐりばいと、私がいつも申しますことは、もう実に美しいです人間的に。けれどもそれにはいつもその人情一杯なんです。
 いうならば情けの掛け過ぎなんです。情の掛け過ぎなんです。もう掛け過ぎと言う事になるとこりゃ我情になるのですよ。先日からも頂いております様に、情けは人の為ならずと昔から言うけれどもそうじゃない。情けを掛けると情けを掛けた者のおかげを落とす。また掛けられた方も本当のおかげにゃならん。そん時にはおかげ戴いとる、はぁあの人に親切にしてもらってって言よるけれどもです、そりゃ本当のおかげにゃならない。神情でいかなければいけない。
 昨日一昨日です、朝のお食事をさしてもらいよります時に、愛子が孫を連れて来た。親先生にちょいと抱いてもらわんのっちてから、けれども私は決して私は抱かんのです。こやってもってくりゃ私はこやって抱かん。そりゃあぁた初孫ですけん可愛くない爺さんがあるはずはないですよね。けれどもね私はね、あのう抱きょると情が湧くです。その情が我情になるです。いわゆる可愛いもう目の中に入れても、痛くないと言うごと可愛くなって来るです。だから私は抱かんです。
 こりゃもう私の精進なんです。昨日私ある方に言ったんですけれども。この方はもう最近儲かって儲かってしようがない。して夫婦で話し合って、こりゃやっぱぁ合楽の金光様のおかげばいっち、どうでんこうでん今日はお礼に出ろう、ご普請が出来てからまだお祝いにもいっとらんけんでと言うてから、昨日お礼参拝をされた方に、私はその方の事を通してから思うたんですけども。
 この人はもうそれこそ金儲けの名人で、言うならば守銭奴、もうそのう金儲けのためにはです、もうそのうどういう犠牲でも払ういわゆる人なんです。私はどっちか私はどうかと言うと徳の亡者です。この人たちが金銭の亡者であるなら、私はお徳をお徳を受けたいためならもうどんな事だってんする私ゃ。例えばそのよくお話の中にも申します様に。私に一番世界中で一番大切ななら親でもです、神様のおおせにゃ背かれないというて大事にする。しなかった時代があるでしょう。親の言う事を聞かなかった時代が。
 神様のもう世界中で何と言うても、両親程大切なものはないんですよ私には。けれどもね、神様のおおせには背かれないとこう言う。お母さんもう世界中のどげな美人がおるというても、世界中で一番愛しておると言うなら、おまえよりほかにゃないぞと。けれどもそういう世界一愛しておるお前であってもです、神様のおおせには背かれないぞと、これは私はもう徳の亡者である証拠だと思うんです。
 私はあの子供でも皆んなあのう椛目の時代、長男長女こりゃもう別ですまだ私が北京時代のですから、こちらへ帰らして頂いてからの、愛子からこちらは私は抱いた事はないんです。抱くと情がわく最後にあのう栄四郎が出来ました、これも神様から最後と言う事を頂いとりましたから、なんかその時にはですねなんとはなしに、なんか最後という人情が出てからこう抱きました。だからやっぱ今でも情が移っていけんです。情が移ったらねお取次ぎができんです。
 いうなら私のいわゆる初孫であるとこの聡子を、私は毎日でも暇があるならいつもこうして来ますから。どら爺ちゃんにやんなさいというて抱きたい。けれども私は抱かない、これは私がですね、そらその事によって徳がすり減らされる様な事があってはならないと思うからです。だからその方の事を私は祈った昨日のその、だから世間では守銭奴と言う風に言うかも知れません。けれどもそのその素晴らしさにゃもう本当に舌を巻くばかり。ですからそういうおかげを頂かれる事のためにです。
 本当のおかげを頂かれるために、もう守銭奴になり通しなさいて。そしてその儲かったお金というものをろ過しなさいって。信心によって浄化しなさいって。と言う様な事をお話した事でした。先日から嫁がここにお届けに出て参りました。子供が首になんかこう化膿したようにしてもう痛そうにしてると。どうぞおかげを頂く様にとというお届けでしたから。私が申しました。子供の病気は親の病気と言われるくらいじゃからね。お母さんが少ししゃんとするとすぐおかげを頂くよって。
 明くる日か朝参りをして来るようになりました。昨日一昨日もういわゆるここへ連れて来た時にこうやって見たらもうおかげで綺麗になっとります。例えばそういうおかげを頂くがよいか、例えばなら化膿しながらでも、今日は可哀そうなさぁお薬つけろ、はぁこうしょうと言うが良いか。本当言うたらなら孫も楽になる事でしょ、嫁もおかげを頂く事でしょ。私もなら孫のじゅつなさそうな姿を見らんでいいのですから。もうここに人情をはさんだらおかげにならんのです。
 だから人情の、人情の強よぉい人はおかげを頂かれんです。そこでなら公子さん当りの様に人情の強い人がです。それが信心の土台にしてそれから先におかげを頂かし、神乍らなおかげの頂ける様になった時が本当なおかげです。情けは人のためならずというけれども、情けは人のためにならない。自分のためにもならない。そういう情は。なら私と真孫との事から聞いて頂ければ分かるでしょ。情と言うというものがどんなもんだと言う事が。爺様としての情を掛けたらおかげ頂かんです。
 幹三郎の病気なんかの時でも、あれを子供としての情を私がかけておったら助かっとらんです。100のものは99は駄目だと言われるほどしの、大病だったんですから。肉腫と言う。けれどもそこにはです私がひっとっつも情をかけてない。一信者としてお取次ぎをさして頂いた。だからそのためのなら工夫と言うもものがです。私がなら子供たちを抱き上げたり情の移る様な事は、やっぱり精進してきたということ。これはもう私はお徳さえ頂ければいいという生き方。
 だからお徳を頂くためにはどげなことでもする。またお徳をすり減らすようなことは、どげん人から馬鹿と言われても、どうした冷たい人じゃろかと言われても、絶対私は言う事は利かん。例えば金貸しなんかをする人がです。情を挟まない。もう期限が来たら差し押さえするにはぴっしゃっと差し押さえする。それを冷酷だと言う冷たいと言う、けれどもそれが信心でその人がなされる時に、それは自他共におかげを頂く道がそっから開けて来るのです。
 人間的にはましたり行き届いちゃる、と言うのはおかげになりません。そげなことするならぼんやりしたり、ぐずぐずしたり人がの生かされんことになる。むしろそういう人は本気で馬鹿と阿呆にならせて頂く稽古を、なら本当の意味においての美しい心にならして頂く事のための、人情を掛けんですむ神情によって思いを表現していくと言う、生き方にならして頂く、今日はその事は天の心をこう言う風にいろいろ申しましたね。天の心になる事ためにはです、先ず本気で一つ馬鹿と阿呆にならにゃいかん。
 そして神様から嫌われる心、それを最近では人を責める様な心というものを取り除かなければならない。なら公子さんなんかの場合なんかは、自分が気が付く自分が出来る。だからついそれを人を責めることになる。その心が神の機感にかなわぬ、だから気の利いとるとこだけはいうなら、人間的に市役所から表彰状をもらいよるばって、神様からはお叱りを受けとると言う感じ、私が皆さんに人情使うと言う事は、皆さんははぁ親先生は情の深い人だと言うかも知れんけれどもです。
 神様からはお叱りを受ける事になるのです私は。だから私はこの人のおかげ頂くためには叩きもする。そりゃ手で叩くと言う事じゃないですけれどもね。おかげを頂かせてもらわなければならない、今例えばそこへ救いの手を差し伸べたなら、もっというて私の手に縋って来るかも知れんけれども。わたしの手に縋ったっちゃおかげにならん。神様にお縋りする気になる事を私は願う。また神様にお縋りし神様が手を差し伸べて下さる時でなからなければ、本当のおかげにならん。
 そういう例はもう例を言うならもういくらもあります。私し信者の間の中に。地の心、もういよいよ地の心と言うのは、馬鹿と阿呆に成らなければならないとこう言う。昨夜の御祈念の後に、光昭が奉唱しておりました。( ? )でしたけれども皆さんに聞いて頂いておる事を聞いてから、本当にそうだなと私は思うんです。これからの合楽の信心と言われる、今までの信心にどういう信心を加えて行ったらよいかと言ったら、これだなっと言う風に私は感じたんですけどもね。
 お互いが信心の稽古をさして頂いておるけれどもです、自分の言うならば責任においての事をなさずして、いかに神様にいうならさかたんぼううっても駄目だと、言う事を今日はそれこそ感じた。私には私の御用がある、その御用を投げ打って神様神様と言うたっちゃ駄目だとこう言う訳。合楽ではやっぱその辺のところがですね、いわゆる神乍ら神ながらで自分の事は、疎かにして行くと言った様な向きがありますよね。だからそれを棚からぼたもちをと言った様な感じですね。
 自分が社会人として人間として、どう務めなければならないところを務めずして、神様神様と言うとるだけじゃいかん。と言う様な事を言うとります。だから問題はねその神乍らと言う事は1にも神様2にも神様3にも神様、というこの生き方で行けばまた別です。1にも神様2にも神様に行きょる様であるけれども。3は自分の堕落しておるところになっておったらおかげにならん。はぁあれどんが信心なするばってん、あれどんがすることはざまなかと言う風に言われるわけです。私は先日それを聞いたんです。
 熊谷さん、吉井の熊谷さんがあるこころやすい方と逢われた。それで合楽の事聞かれるから、なんかはぁこりゃ信心の心を向けてきょんなさるとかと思うて話したら。私の知っておる何々も合楽の信者で幹部げなのっち。はぁもあっちはもうまぁ言うならもう素晴らしい信心をされます。私しゃ魂がったあげんとが合楽に一番分るのっち、あげんとが私のっち言われたっち。そうしてその人が人間的に、言うならばいうなら可笑しい所を指摘されて、私はもう言い様がなかったと言うて、熊谷さんは言われた事がある。
 自分の手元の所は一つも務めとらんで、ただ神様神様とそれけんそこ参っておるなら、3にも神様と言う所まで行き切れば問題ないけれども、あと一つは自分のよかごとしょる。信心のないももんでもそげな事しょる。これでは本当の信心は出来ない、私はこれから合楽に求められるものは、そういうところをですね焦点を置かなければいけない。いうなら地の心です。辛抱強い心です。どういう例えば汚いものを持って行っても、黙ぁって受ける辛抱強さです。
 その辛抱できん所に神様神様ちゅ言よるけれども、3のところで辛抱できんなり言うなら信心のない者からでも、後ろ指さされる様な結果になるのです。だからもう一つそこんところを信心で行き切ればです、それはもういわゆるお徳を受けていく信心に成りますけれどもです。いわゆる大地の信心が出来ていない。素晴らしい時と素晴らしく悪い時と両方面があるということなんです。これでは成程おかげも受けられまい、お徳も本当に受けられないと思うです。
 地の心、黙って受けて受け抜くと言う辛抱強さ、というここでは地の心と言う風に申します。信心させて頂き中で私が今もうします様な、その天心地の心と言った様な心をです、心としての日常生活を目指さなければいけんのです。日月の心正、確無比、実意丁寧と言う事でしょう。その上に例えばそういう、なら、の心地の心と言う様な信心をさせて頂いてです、公子さんのごたる風に気の利いたり、気の付いたり生き方になれば、これはもう鬼に金棒でしょう。
 だから天の心、地の心がなしに、例えばあまりにさばけておったり気の利いたりと言うのは、市役所からは表彰されるかもしれんけれども、神様からはそれでは神様にゃ受けれないと言う事。天の心、地の心をです、いうならばならせて頂いてからの、正確無比と言う様な行き届いた信心が出来るならばです、もういよいよもっておかげなるかし。いわゆるですから今申しました、こりゃもう今まで皆さんに言うた、ずっともう何十年間いろんな角度から聞いて頂いた事ばっかりを申しましたよね。
 天地日月の心になる事が肝要だと仰せられる。だからここに取り組む以外にはない、いわゆる御理解7節は、合楽の信心の進め方の最も焦点になされなければならない、これは御教えだと言う事を聞いて頂いた。天地金乃神は昔からある神ぞ、途中からできた神でなし、これは私共がね新たな認識というものをここに頂かなければならない。私共が頂いておる天地金乃神様と言う方は、そういう神様であると言う認識をいよいよ深めていかなければいけない。
 天地ははやる事もなしはやる事なければ終わりもなしと。ところが私共の心の上に、はやったり廃れたりするする心があるところにおかげが受ける、天地日月の心になると言う事が神様の心であるならばです、そういう心を頂かせて頂くための精進をさせて頂きながらもです。私共に言うならば、あの人はどうもお天気屋さんだと言われる様なね、やったりやらなかったりと言った様な事ではおかげにならん。
 まぁ一番よく良い例を言うならば、初代の時には大変な御比礼を立てられた教会であっても、2代になり3代になって、そのおかげが地に落ちてしまうと言うのは、親父さんの時にはえらいはやらっしゃたけれども、子供の時にはもう流行遅れになったと言う事なんです。だから人がもう見向きもしない。だからいかに私共の心の信心の上にもですね、はやったりすたれたりする信心であっては、いけないと言う事を、分からしてもらわなければいけません。
 ほりゃもう一時ばっかりはもう合楽の親先生でなからにゃならんごと言いよる。もう先生のためには生命でもと言いよる。けれども何かの事が起こって来ると、もうすたぁっと目が覚めてしまう。いあわゆるそげなるどころかかえって悪口どん言うごとなる。こう言う信心では、どういうおかげを頂いても同んなじだと思うですね。私共の心の中にです、そういう邑のある心、そういう心を私共の心から、取り除かしてもらう改めさしてもらうと言った様なところに焦点を置いて本気で信心。
 それこそそのぱぁっとした事もないけれども、狂わないと言う信心。間違いのないと言う信心。そういう私はいかに神様は、はやる事もあんなささるまい、また終わりも始めもなかろうけれどもです。受ける方の私共の方の側にです、はやる心やらすたれる心がある様な事ではいけないと、これは私共はそう思わしてもらわなければいかん。そう気付かして頂かなければいけない。
 そりゃいろいろあります、いわゆるスランプ状態と言った様な事もありあす信心には。これな何の稽古でも同じ事。だからおかげを頂いて行く人はです、いうならばそのスランプ状態のところを第一に大事に致します。そのスランプ状態の時をです、いうならば信心をがたがた落としてしまうと言った様な心が、私は天地は、はやる事もなし終わる事もない始めも終わりもないと、言う様な信心を頂いとる者のです、信心者の心の中にそういう一つの覚悟ですね。
 ここは節ぞと思う様なところをです、いよいよその節を大事にしていかなければ、その節は節から折れやすいところなんですから危ない。だからそこんところをむしろ大事にしていくと言う信心を、身に着けて行かなければならない。同時に日月の心になる事肝要と仰る信心、ここのところはもう合楽で信心の稽古をするなら、ここの所の焦点ここの所を追及する、ここの所を深めていく以外にゃないと思われる位、けれどもその事にです1にここの所努めていく、1にも2にも努めておる。
 けれども3の所では自分勝手な事をしておると言った様な事では、いかに天地の日月の心に努め、それだと言う風に知っておっても務めておっても駄目です。後の一つのところで人から後ろ指をさされる様な事で、これで本当のおかげになる筈はありません。だからそこんところを大地の心で辛抱し抜かせてもろうて、初めて天地日月の心と言う事になら言えれると思う。
 今日は天地日月の心をまぁいっちょ改めてですね、頂き直した様な感じです。そこで私はまぁ本当に徳の亡者と言う風にまぁ申しましたがです、これが徳を受けることであるならばです。どの様な辛抱もさしてもらう。それは例えば笑われても、またそう言う事で徳がすり減らされる様だったら。可愛い孫でも抱くまい。というぐらいな精進を私はしております。やはり頂いていくと言う事のためには、まぁまた頂いたものは戻さんですむ精進も、やはり大事だと言う事ですよね。
 どうぞ。